立ち読み

「これが書けたら死んでもいい」と思える小説のつくりかた はじめに

(本書まえがき「はじめに」より)

「金にもならない、誰に見せるわけでもない、役立つ資格につながるわけでもないのに、なんでアンタは小説なんか書いているの」

と尋ねられる時、私はいつも答えに窮する。


 確かに言われる通りなのだ。


 私はこれまで人生の時間の大部分を、創作、特に小説を書くことに費やしてきた。だが、それで何か得をしたかと思い返してみても、そんな記憶はひとつもない。いや、もしかしたら損をしてきたかもしれない。受験生をしていたころには、高いお金を払って通っていた予備校の授業中、ショートショートばかり書いていた。大学のころは他のみんなが恋人をつくって青春を謳歌しまくっている時、独り家に籠もってカリカリやっていた。


 小説なんか書かずにちゃんと真面目に勉強していたら、今ごろエリート街道を突っ走っていたかもしれない。恋にファッションに青春を謳歌していれば、いまより垢抜けたアクティブな生活を送っていたかもしれない・・・・・・。


 私は仕方無しにこう答える。


「これはもう・・・・・・生理現象です。トイレに行ったり、眠くなったり、性欲がたかまったりするのとおんなじで、書かずにはいられないんです」


「そんなに書きたいことがあるんですか?」


「いや、そういうわけでもないんですが・・・・・・」


 やっとこさ答えを見つけ出しても、すぐまた別の何かを問われてしまえば、やはり答えに窮してしまう。


 おそらく、小説執筆を趣味にしている人の多くは、右と同じ状況を幾度も経験していることだと思う。


 なぜ、人は小説を書くのか。


 これは文芸史の抱える根本的な問いであるかもしれない。プロの作家が生活を維持するためにストーリーをこねくり回して編み上げる、いわゆる「売るための執筆」とは別に、個々人が趣味として綴る「自分のための」小説というものが存在し、しかもその多くが日の目を見ず、また、日の目を見るつもりもなく、何百何千と生まれ、人知れず消えてゆく。プロでもない人間が、実生活上何の特にもならない小説の執筆に、時間と労力の消費を惜しまないという現象は、真に不思議なものだ。


 私はこれまで、下手の横好きでいくつかの小説を書き上げてきた。作品は、高校時代、大学時代、社会人以降、自分の歴史のところどころで生まれてきた。時折過去の物を引っ張り出して読み返す。すると、稚拙さや過りの多さにやや辟易するものの、それとは別に「おお」と感慨深くなることがひとつある。


「ああ、この頃はこんなことを考えていたのか」


という自分への気づきだ。


 自分の作品を書き上げられた時系列に並べてみると、現実の思い出と精神の思い出が見事に照らしあわされる。稚拙ながらに哲学じみたものを感じ始めていた若い頃。恋に悩み、仕事に惑い、自分に自信を失っていた頃。結婚し、落ち着いて世間を見渡せるようになった昨今・・・・・・。自分が自分の歴史の時々に何を感じ、何を考えて生きてきたのかよく分かる。それは日記やブログといった日々録では残せない、もっと精神的な年表として、改めて自分の眼前に広がってくる。


 このように振り返ると、小説は「自分の年表」を作るために執筆されているように思われるが、面白いことに、個々の作品を創作する時に、「自分の年表」を作るために書こうなんて思ったことは、一度もない。



 うーん、どうして小説なんか書くんだろう。



 今回このエッセーを書こうと思い立った理由は、以上のように私自身が趣味で小説を書きながら感じている不思議の原因を少しでも解明できないかという個人的な思いと、もうひとつ、ぜひみなさんもこの不思議体験を味わってみませんかとお勧めしたいためである。


 確かに、小説を書くという趣味は、幼い頃からその環境になければなかなかとっつきにくい趣味だ。アタマは疲れるし、時間も掛かる。巧くいかずに苛々することも度々で、何かの拍子に人目に入って酷評されたら人間関係すら危うくなる時もある。


 だが、そういった労苦を越えて書き上げた小説と、少しの時間お別れをして、数年ぶりにでも出会えたら、先ほどの私の体験のように、過去の自分と新鮮な感覚で向き合うことが出来る。この感覚は、他の何にも変えがたい、あなただけの特別な体験になる。


 加えてもうひとつ。小説、特に私小説を著すことは、自分自身に思いをめぐらすことを促す。自分と向き合い、目を背けたくなるような自分の業を受け入れなければ、作品を編むことができないからだ。しかし、この苦しい時間から逃げずに努め、自己をとことん客観し、一つの作品と呼べるものが出来上がったとき、書き手はいつの間にか自分の業を克服している。作品の数が増えれば増えるだけ、業は乗り越えられていくことになる。それはその人自身の成長であり、自信につながる。いわば、自己啓発の作用もあるのだ。自分に目標がないとか、何のために生きているのかわからないという虚無に悩む人には、自分と自分自身の関係を修復し、前進するチャンスになる。そしてその書き上げられた作品は自分を乗り越えた証として、記念碑的な存在となる。


 一見意味のない趣味の筆頭であるかのような小説執筆。


 しかし、他の趣味では決して味わえない自分だけの世界を体験できる。


 そして、ある程度「小説を書く」という趣味が恒常化し、自分と自分の作品との関係が対等になってくると、記念碑的な作品の数々が自己の内面を体系化する殿堂を築き上げ、本書のタイトル「これが書けたら死んでもいい」と思える心境に至る・・・・・・かもしれない。私自身、未だその境地に至っていないから何とも言えないが。


 ペンと紙と時間があれば、全然お金のかからない趣味、小説。あなただって、長い人生に一編くらい自作の小説があってもいいのではないだろうか。